広島県にある建物の中で、戦後をこの世に伝えるもっとも歴史的な建造物は原爆ドームです。ぜひ観光してほしい建物です。
今ではユネスコの世界文化遺産として登録され日本に残されている建造物です。原爆ドームは大正8年広島県の物産品の展示や販売をする施設としてあり当時は広島県物産陳列館という名前だった建物です。
目次
原爆ドームの歴史
そうして、昭和8年には広島県産業奨励館になりました。この建物は3階建でヨーロッパ風の作りになっておりモダンな作りになっています。当時から広島県の観光名所として親しまれていました。
戦争が始まり原爆が落とされた昭和20年。爆風と共に広島市街が焼け野原になってしまったのです。
原爆ドームだけは奇跡的に倒壊なく生き残りました。一発の爆弾で広島市街が焼け野原になる中で生き残った建造物です。
当時は世界でも類を見ない程の悲惨な状態でしたが、原爆ドームは耐え抜いたのです。戦争は一つの大きな大事件です。その事実を後世に伝える歴史的な建造物が原爆ドームなのです。
どうしようもない戦争ではありますが、歴史をそうして二度と起こってはならない事だと伝える場所の象徴が原爆ドームなのです。
周辺の食べ物
広島県のソウルフードともいうべき食べ物は原爆ドームの近くにあるお好み焼き屋さんにあります。
そこでは、美味しいそばが入ったお好み焼きがいただけるので、地元でも有名とあり連日の様に賑わっている観光場所です。
ボリュームもあるので、食べごたえ満足できるお好み焼きです。世界文化遺産の原爆ドームを観光した後に食べる地元のソウルフードはレトロ感もありますし昭和の臭いも感じる場所です。
また、平和記念公園からも近いので行くのにも便利な場所のお店が殆どです。広島県のお好み焼きは、昔ながらのお好み焼きがベストではないでしょうか。
周辺公園
周辺の公園では、平和記念公園がいい場所になります。公園内にある歴史を振り返る資料館では、原子爆弾の被害を伝える為に命を奪われた人たちの事や被害にあった人たちの事が解り改めて原爆の恐ろしさを知ることが出来ます。
この資料館は、世界的にも原爆で被害にあった人の後世が目で見る事で解るのです。また、公園なには緑豊かですし歴史の長さも感じることが出来ます。そうして、公園内自体フラットな作りいなっているので車いすでも入りやすい場所です。
歴史の振り返り方
原爆ドームの歴史を振り返るには、原爆ドームが何の建物であったかを知る必要があります。
まず、広島県で作られた原爆ドームは始め物産店でした。広島県の物産を販売するお店です。
その後に、名前が変わり広島県立商品陳列館、そうして広島県産業奨励館になったのです。
その当時から建物は珍しい見た目で今と変わりのないかたちでした。西洋風なモダンな作りです。
当時から人気があり地元でも有名なお店だったのです。設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏が行ない石材とモルタルを使い一部鉄骨を使って原爆ドームを作り上げたのです。
また、明治から大正になるときには大正天皇即位式が行なわれました。その為、各地でもイベントが開催されたのです。
そうして、広島では10日間広島県物産陳列館で広島のお菓子品評会が開催され大盛況でした。当時は多くの入場者が来場して入場制限がかかったほどです。その後、昭和に入り広島県産業奨励館と名前を変え原爆ドームは残り続けるのです。
残ることで学べること
原爆ドームが残ることで学べることはただ一つ、命の尊さ。今もなお広島県に佇む鉄骨をむき出しにして建っている姿を見ればその事が解るでしょう。原爆は後世に残してはいけない事だという事です。
繁栄していた姿が残っているのが骨組みになっているのを見るだけでもあってはならない事だという事なのです。
未来へのメッセージ
原爆ドームからのメッセージを辿るならば、未来に残すメッセージだと置き換える事ではないでしょうか。
それは、忘れかけている過去の原爆の実態です。戦争体験をしている方はもう数限りない少数になっています。
語ってくれる方はいないのが現実です。しかし、建造物は違います。何時までも残り続けてくれるのです。
あれだけの悲惨な原爆の実態を後世に残してくれているのです。だから、戦争の恐ろしさを今の平和な時に見てもう一回知る必要があるのが原爆ドームなのです。
原爆ドームに秘められる思い
原爆ドームは、残されるべくして残された建造物だと感じています。それは当時、戦争が始まりそうな時にあえてモダンな作りをしたからそう感じるのです。残したい気持ちが伝わる建造物であることから原爆ドームは永遠の架橋になるでしょう。
原爆ドームは残して欲しい
原爆ドームは残したいと思います。それは、劣化が進むからです。建物はどうしても劣化をしてしまうものです。
だから、修復をしなければいけません。その立役者になる為にも何かしらの修復作業の為に力になる様に方法を考えて守る事が後世絵の為になるのだと感じるのです。