富山湾の景観と射水市新湊の観光と名所

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富山県の富山湾の観光についてです。直ぐ隣の県である石川県というのは前田氏の加賀百万石とも言われていて、近頃は北陸新幹線も開通して豊かな地であるとされています。

 

富山県は越中富山といわれていて、加賀前田100万石の本藩に比べて前田家の支藩にすぎなかったし、富山藩としては僅か10万石の貧国で有ったとも言われています。

 

そんなことからか、越中富山の人々は藩主を始め倹約を旨となし、贅沢を戒めたとされ、今でも堅実な県民性が伺えるところなのです。

 

此のことは以前には田中耕一氏がノーベル賞という偉大な賞を戴いたことも富山の県民性の現れであり、一つの要因であろうと想像できるのです。

 

目次

立山連峰と富山湾

富山県は立山連峰の3000m級の険しい山並みが連なる風景が有名で、其の山々の雪解け水や雨水が森林を通って富山平野の各河川に流れ込みます。

 

それらの河川は中腹に広がる森林地帯の有機質がプランクトンを培養し、河川が流れ出た富山湾は絶好の豊富な漁場の環境を形作っているのです。

能登半島に半ば囲まれている富山湾は、又、海底の特徴は最も大陸棚というのが発達していて、此の状態のことを地元では「ふけ」とか「ふけぎわ」といって、此れ等の沿岸地域は古くから漁業が盛んな場所になっているのです。

 

此のように漁場としては富山湾は全国的にも豊漁の漁場とされていて、湾そのものが「天然の生簀(いけす)」とも呼ばれ、県内は北陸でも随一の漁獲高を誇っていて、その魚類の美味しさも抜群であるとされています。

 

雨晴海岸

射水市新湊から少し西へ行ったところに富山湾名所の「雨晴海岸」という、風光明媚なところがあります。

 

此の地は「万葉集」にも謳われている風雅なところで、当時の歌人・大伴家持(おおとも の やかもち)も歌っています。

 

大伴家持といえば、此の万葉集の著書選者としても知られていて、此の地の富山湾の景勝地を愛でた人でも有るのです。

 

実は、この度の平成の御代から次世代に移るための新元号が「令和」と発表されましたが、何でも報道等によりますと、新元号は万葉集から発案されたともされています。

 

大伴家持

万葉集と言えば奈良時代に編纂された日本最古の国文学書とされていて、其の中の主たる編纂にあたった人物こそ此の「大伴家持」だったのです。

 

大伴家持は奈良時代における歌人であり、中央官庁の役人でも有ったのです。其の大伴家持が奈良時代に越中国守(現富山県)に任じられて赴任してきてからは、富山湾周辺の風光を大変好み、この地方を歌や和歌で詠んだ数が30首以上もあって、此の全てが万葉集に収めているとされています。

 

家持は、特に富山湾や美しく聳える立山連峰の絶景を大いに好んだようで、富山湾に浮かぶように見える白く輝く立山連峰の景観と、3,000m級の山並みを眺めることができる此の地と富山湾一帯から雨晴海岸(現在の高岡市)にかけてが好んだようで、此の地は万葉の時代から歌にも謳われるほどの景勝地であったことでも解ります。

 

因みに、大伴家持が越中守に任じられ越中の国(当時の国府は現在の高岡市)に赴任してきたのは奈良時代の天平年間(8世紀頃)で、都へ帰京するまでの5年間にわたって赴任していたとされています。

 

特に、家持には通常の国守(中央の役人が地方の管理のために任に着くこと)としての任務のほか、奈良・東大寺の官業でもある造営や管理運営も営んでいたとも言われていて、其の傍らではその任務を全うしながら、其の折々に好きな歌を詠んだといわれています。

 

大伴家持は中でも生涯で最大仕事として後世に残したのは「万葉集」で、その編集・編纂に加わり、万葉集全20巻の内、其の中の17巻から19巻に家持自身の歌や歌日記を残したのでした。

 

現在は新元号である「令和」のことで日本国民はこの話題でもちきりであるが、実は大伴家持の歌は、万葉集というのは全部の歌数は4500首ほど有るとされていますが、彼自身が歌った歌や和歌は470首に及ぶとされていて、勿論、万葉歌人の中では圧倒的に第一位っを締めているのです。

 

特に、其の中でも富山越中時代の5年間に詠んだ歌が223首を占めるとされていて、奈良時代という古代の越中の国(富山県)のことを知る上では、掛け替えのない生きた史料となっているといわれているのです。

 

 

さて、雨晴海岸というユニークな地名や風景は、富山県内の観光パンフレットの定盤でもあり、その後のエピソードとして鎌倉時代に頼朝に追われている源義経一行が雨宿りをしたという伝説もあり、現に義経岩というのも有るという。

 

其の国道160号線は高岡市からは国道8号線になり、市内では色柄も艶やかな市電がユッタリと走っています。

 

この辺りは前述したように今でも万葉の地とされていて、其の名も「万葉線」というらしい。

射水市新湊

電車は小矢部川に沿ってって河口付近からは射水市新湊に至っているが、此の地の射水市新湊というのは以前は富山県の「新湊市」とも言われていて、十数年前に周辺地域の合併で射水市、そして射水市新湊として新規に発足しているのです。 「

 

射水と書いてイミズと称しますが、此の地名は万葉集の中にも登場するそうで、古くから書物や地図にその名が記されているなど、永い歴史を持つ由緒ある地名である事も判ります。

 

この地方は富山平野は立山連峰の生冷な湧き水の豊富なところでも知られ、平野に湧き出る清水群を見て、古(いにしえ)の人々はこの地を「水の出ずる国」として、この言葉から「射水」(いみず)という土地名が生まれたともいわれているそうです。

 

この射水市新湊は字のごとく、湊を大きく広げて発展した街でもあり、其れは明治時代以降になって「新湊」と近代的な名称を付し、更に射水市新湊になったものです。

 

観光ポイント

新湊地区は海岸に沿って東西に長く西新湊、中新湊、其れに東新湊地区に別れてい入るようですが、何処も海岸線の美しいところで、見るべき観光のポイントも沢山あります。

 

祭りやイベントでは「富山新港新湊まつり」といって盛夏の8月に行われ、又、「海老江曳山祭」は9月の下旬に行われ、「あ、いやさー」というかけ声とともに10数基の曳山が街中を練り歩き、著名な放生津八幡宮を目指します。

 

其れに新湊の「カニかに海鮮まつり」は11月頃と、地区一同は祭りやイベント一色に染まります。

 

新湊の観光名所は「海王丸パーク(海王丸)」や新湊大橋は見るべきところとして地元でも自慢のところでしょう。

 

此の地区はまた橋の観光名所でお有り、「内川めぐり」といって、此の内川地域は其の風情から東洋のベニスではなく、「日本のベニス」とも紹介されることもあり、遊覧船巡りで新湊大橋や二の丸橋、放生津橋、などの多くの橋巡りのルートなどを訪ねるのも観光客には楽しめるところです。

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